轟音事変

轟音は"ごうおん"と発音してください。

ゆるく生きるという幻想

「淡々とリズムを刻む生活をしている」と相手に伝えると、人によっては「そんなに管理されて大変ですね」といった反応をされる。

ゆるく生きる。飄々と生きる。そうした生き方に自分も憧れがあった。旅をしながら、ノマドをしながら、なんとなく仕事をして、なんとなく生きていく。なんとなく美味いものを食べて、酒を飲みながらなんとなく話しながら、なんとなく寝る、みたいななんとなくな生活だ。

ようするにストレスフリーな生き方がゆるさだとするならば、そもそもの支配からの脱却が必要になる。支配とは単に主従関係といった関係性の話ではなく、自己主体性があるかどうかという自己の話である。主体性を持った生き方ができていなければ自分の人生を歩んでいるとは言えず、それは支配された人生を歩んでいることにつながる。主体性を持たずに外側だけを真似てゆるく生きたとしても、それは長続きはしない。なぜならば結局は支配の中の自由だからだ。

根本的なストレスがない生き方を目指すならば主体性を持つことが重要であり、その点をまずは自覚できるかどうかが大事だ。自分はいったい何に価値を感じ、何にこだわるのかを明確にしながら、自分で目標を立て、それを実現するためにはどうすればよいか考えながら生きていく。主体性をもった生き方とはそういうものであり、誰かに与えられたものを延々と得るだけでは本質的には支配されたままである。

私の場合、その実現方法はリズムを刻む時間割が適切であり、それが主体的な生き方だといえる。人によってはプールサイドでぼんやりしながらパソコンを開くような方法が主体的な生き方になる人もいるのかもしれない。それがどんな方法になるかは人によるのだろうが、いわゆるゆるく生きる方法が正しくゆるさがあるかどうかは主体性によるのだ。

などと過去の自分に話せばまー聞かなかったとは思う。まさか、ぼんやりしながら生きるよりも、パキっとした時間割で生きる方が実は自分にとって楽で思考量も増えるということはやってみなければわからなかった。これはこういうものだという概念を捨てて、自分で考えて選択し違ったら変えるという柔軟性を常に持ち続けることが、必要なのだ。