轟音事変

轟音は"ごうおん"と発音してください。

歩く街、歩かない街

先日、久しぶりに都会へ出た。都会は歩く。駅から目的地へ、とにかく歩く。階段を下り、階段を上り、せっせと歩く仕様になっている。

田舎はとにかく歩かない。とにかく車。歩いて5分の場所でも可能な限り車で移動する。歩かないし、歩けない。石巻には日和山という観光スポットがある。そこへ案内する時によく使われる言葉として「東京から来た人なら行ける」がある。東京の人は歩くことに慣れているため、歩けるが、地元の人は歩けないのである。びっくりするが、本当の話だ。

私は普段からジムでせっせと運動しているため多少はマシだとは思う。それでも慣れてはいないため、起伏がある道を歩けば額に汗をかき身体に負担を感じる。周囲の都会人は平気でスタスタと歩いていく。大きな違いを感じる。

日常的に歩く文化が一般化されている地域は、体力向上が見込まれ、まず身体的なメリットがある。また、車では目的地から目的地へ点の移動になるが徒歩は線で動けるため寄り道が発生し、商業的なメリットが生まれる。そして排気ガスが出ないため、環境的にもメリットがある。少し考えただけでもメリットだらけである。歩けるという事は道路環境も良いはずで、比較すれば障がいを持っている人にも優しい可能性は高い。

歩かない文化、つまり車社会のいいところはなんだろうか。重たいものを運ぶことができる、移動が楽、車を所有さえしていれば誰でもサードプレイスを持つことができるといったところだろうか。これらは社会的なメリットではなく車そのもののメリットのように思う。

田舎はそもそも車がなければ移動が困難になるため、どうしても車がメインにはなる。とはいえ、商業エリア、市街地エリアが栄えていた時代は歩く文化もあったはず。それが車にとっても便利な無料駐車場が組み込まれたロードサイド店、郊外大型店舗が生まれ、徐々に商店街は衰退していった。そう考えると街の衰退と、歩く文化の衰退はリンクする部分もあるように思う。

歩かない街はどんどん更けこむ。
街を改善したいのであれば、人を歩かせる方法を検討する必要がある。

そんなことを額に汗をかきながら、考えた。