轟音事変

轟音は"ごうおん"と発音してください。

地獄研修「声だし」の記憶

時期がややずれたが、4月に入り新入社員になった方も多いと思う。コロナ禍で各社どのような対応をしているかは不明だが、通常であれば初期研修が終わり、現場配属に入るような時期ではないかと思う。そんな新入社員の方へ、送りたい言葉があるとすれば「心身の健康が土台」だということ。少し前に機会があり「人はいつから自分の心理状態を把握できようになるのか?」といった問いを立てた際、多く聞かれた声は20代後半だった。つまり、20代前半は自身のことすらまだあやふやで、気づけば、大変とてもしんどい状態になっている。なんていうことはよくある話なのである。だからまずは心身の健康に注意を払うべきなのだ。

ただ、会社によってはそうもいかない企業もある。実は私が新卒で入った会社も、非常に有名なブラック企業だった。そうだとわかって入ってはいたものの、内情を知れば知るほど黒さが増す会社だったことを思い出す。

もっともわかりやすいエピソードは内定者研修で行われた「声だし研修」だ。

参加内定者は30名程度、研修施設(これはよくある一般的な施設)に集められ、朝から簡単なオリエンテーションをこなす。その後15時に「次の研修がクリアできれば今日は終了だよ!」と笑顔で人事担当が話した。自分も含めて内定者は案外こんなもんかーと安堵していたが、この研修こそが地獄の内容だったのである。

ルールをざっくりまとめると、

(1)4人1チームで経営理念(10項目)を覚える
(2)暗記項目は4人で分担OK
(3)覚えたらチーム単位でステージに立ち人事の前で1人ずつ「大声」で発表
※大声とはこれまで出したことのない限界を越えたものを指す

というものだ。
これだけ聞けばそんなものはすぐにクリアできそうなものだが、まず容易にできない仕組みになっている。人事としての狙いは経営理念を覚えてもらうことではなく、今までの自分の限界を越えて、新しい自分を見出すことにある。ようするに「洗脳」が目的であり、強制力を持って自己変革を促す仕組みであるため、単に覚えて発表ではないのである。ちなみにこの際に覚えた経営理念はその後会社で見ることはなかった。

そんなことも知らず、素直にステージで発表をすると、盛大に詰められるのだ。「お前の限界はそんなもんか!」と。新卒担当の人事レベルであれば一般的な人材だが、その上司になると話は変わってくる。ブラック企業で上に上がる人材は当然ながらブラックレベルを一線超えた人材になり、その上司が同席となれば必然的に新卒担当も一気に戦闘力が増すのである。

経営理念を各自覚えて叫びまくる。それなりに広いとはいえ、一つの部屋で6チームが限界を超えた声量を出しまくっている。部屋は酸欠になり、ふらつく。その中で人事が内定者に対して「もっと出せる!」「もっとやれる!」と迫ってくるのである。さすがに噂に名高いブラック企業なだけあって頭狂ってるな…と思うものの、クリアしないことにはどうしようもない状況。そのうち何とかクリアできるだろうと思いながらチャレンジを重ねる。が、なかなかクリアができない。ご飯も食べずに20時が過ぎ、21時が過ぎた。困難を極め、当然ながらみんな辛そうだ。

ようやく、はじめてのクリアチームが出たのは23時を回ったころだった。うちのチームだったのだが、なんとかかんとかクリアすることができた。それでも15時から23時までぶっ通しである(飯の記憶は定かではない)。ぶっ通しで詰められながら、大声を出すのだ。途中で本質的な仕組みを理解していたため、正気を保てていた方ではあると思うが、終わりには放心状態になっていたとは思う。

その後、他のチームを部屋で待つことにした。少しずつ戻ってきたが、2チームがいつまでも戻ってこない。たしか深夜4時ごろだったと思うが、様子を見に行くと、会場では全員が号泣していた…全員というのは人事も含めてである。結局、残りのチームはタイムリミットで未達成であり、それに対しての涙だったのだ。今思い出しても、ひどい光景だ。朝5時に全員解散。

そして翌日は朝から研修が始まるのだが、全員喉が潰れており、声が出せない状況で名刺交換といった内容である。いやいや、何考えてるんだって思いながらこなした記憶がある。

こうした謎の研修は人材開発系がパッケージ化し販売したサービスになっており、声だし研修も検索すれば似たようなフォーマットががつがつ引っかかるのでもっと闇を見たい人はぜひ。

こんなことをする企業にたまたま入るという人はあまりいないと思うが、もしたまたま入ってしまったのだとすればとにかく早めに逃げることをおすすめする。

2021年石巻市長選挙展望

このブログを見ている人にはあまり関係がないとは思うが記録の意味合いも含め、今日はまもなく実施される石巻市長選について書いていきたい。

www.city.ishinomaki.lg.jp

これまでの石巻市長、亀山紘氏の現役引退により今回は全員新人。自民系から2人出馬し、保守分裂の要素も含む、見どころのある選挙戦になっている。

前回の市長選(2017年)は、

https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/40101000/6997/290423shicyou.pdf

有権者数123,918人に対し54,911人が投票、投票率は44.31%、28,630票を獲得した亀山紘氏(3期目)が当選を果たした。ちなみに2位は今回の市長選に立候補を表明している阿部和芳氏で12,408票。つまり現職だった亀山紘氏が圧勝した選挙戦になった。

さて、ここからは今回の候補者5名に対する私見を書いていく。

長純一(54)
石巻市包括ケアセンター長。震災後の石巻の医療体制を整えてきたが、権限がないとこれ以上は進めることは難しいと判断し立候補。医療福祉分野を伸ばすという目的があり、掲げているメッセージは明確。ジェンダーバランスに対する意識も発言から読み取れ、全体的にリベラルな雰囲気が漂う。経済面での施策は気になる部分ではあるものの、医療全フリで医療介護分野を伸ばした先にすべてがつながるという発想は面白い。

chojunichi.com

note.com

https://i-jc.net/wp-content/uploads/2021/04/manifest__chojunichi.pdf

 

齋藤正美(66)
前県議。自民、立憲の推薦を獲得、現職の亀山紘氏も後継に指名。組織票が集まることは明らかで、現状ではもっとも当選に近い。特に投票率が低ければ齋藤氏が有利になるだろう。掲げた政策も手堅く、ベテランらしい選挙の戦い方で、とにかくマイナスがないように気を配っている様子が見られる。しかし、討論会でのほぼ台本通りの発言からも伝わる通り、掲げた政策の理解や自身の深い考え方に関してはまったく見えない点は気がかりだ。

saitou-masami.sakura.ne.jp

note.com

https://i-jc.net/wp-content/uploads/2021/04/manifest__saitomasami.pdf

 

阿部和芳(61)
前市議。市長を目指し、これまでも市長選に出馬を続け、今回こそはという気持ちが強いのではないかと思う。市議を長年経験してきたこともあり、齋藤氏同様に掲げる政策は手堅く、選挙の戦い方も慣れたものを感じる。だからこそ、齋藤氏との差別化が難しいように見える。ベテラン政治家タイプという括りでいえばカテゴリーは近く、齋藤氏との差別化がポイントになるだろう。

kazuyoshiabe.net

note.com

https://i-jc.net/wp-content/uploads/2021/04/manifest__abekazuyoshi.pdf

 

勝沼栄明(46)
衆議院議員(自民)。もっとも若く、医師であり、そして前衆議院議員というステータスだけで判断すれば一番有利な気はする勝沼氏。本人に会ったことはないが頭がよく、状況を理解した上で流れに乗ることがうまい、バランス力に長けた人なのではないかと思う。市長になっても議会や市役所上層部ともうまく折り合いをつけてやれそうなイメージは持てる。しかし、勝沼氏には強く気になる点がある。それは医師等資格確認検索で該当しない点だ。

licenseif.mhlw.go.jp

↑このサイトで医師免許の所持者を検索できるのだが、勝沼栄明氏の名前ではひっかからない(ちなみに長純一氏は出てくる)。可能性として登録名が違うか、もしくは2年に1度の届け出(医師法第6条にて義務化されてる)を怠っているかのいずれか。過去の記録からさすがに無免許ということはなさそうだが、仮にも国政経験があり市長選に出馬する方がこの辺の届け出に隙を見せるのは、IRの件同様に脇の甘さを感じる。

katsunuma-shigeaki.com

note.com

https://i-jc.net/wp-content/uploads/2021/04/manifest__katsunumasigeaki.pdf

 

豊沢幸四郎(59)
豊沢氏に関しては掲げている政策と討論会での発言内容を踏まえて、あえて論じる点はないと判断。note.com

https://i-jc.net/wp-content/uploads/2021/04/manifest__toyosawakoshiro.pdf

 

というわけで、5人の候補者について一通り書いてみた。医療分野を強化したいなら長氏、路線継続なら齋藤氏、政治家タイプで革新を望むなら阿部氏、若者よりでフットワークの軽さを望むなら勝沼氏といったところか。

現状では齋藤氏が有利な展開だと思うが、個人的には市長になることが目的ではなく手段として明確に捉えている長氏を推したい。

投票日は4月25日。
さて、どうなるか。

鉄人思想からの脱却

過去、自分には鉄人思想があった。

寝なくても大丈夫、ストレスに強く、どんな環境でも適応し乗り切ることができる。ここでいう、鉄人思想とはこういうもの。万能感、あるいは根拠のない自信と捉えてもよい。できないものは見ようとせず、できると思いこんでやり続ける。なぜそのような思想を持つようになったのか。明確な答えは持ち合わせていないが、そうした鉄人スタイルへの憧れや目指すべき姿として見据えていたことは確か。

当然ながら思い込みは思い込みであり、実現できるかどうかは別である。実現できなければなぜ実現できないのか、やれるはずなのに、なぜやれないのか。外側の試行錯誤が続く。理想のあるべき姿を目指して、それを信じていた。しかし、やれない、まったくやれない。もっとやれる!と思ってもやれない。そのような流れで、だましだましずっと続けてきたが、そもそも無理があったのた。

転機があったのは生活習慣を強制的に変更したことだ。

mikamikami.hatenablog.com

↑詳しくはこちら。

無理があったと自覚が先ではなく、生活習慣を実験的に変更したことで無理をしていたことを理解した。自分は自分が長年思い込んでいた超人的な働き方をすることはできず、むしろ生産性が落ちていたことを理解したのだ。まさにパラダイムシフト。他人と自分は異なるため、そもそも身の丈を知る必要があった。思い込みではない、生きる上でのリアルな身の丈を知ることがもっとも近道だったのだ。

そこから身の丈に合わせた整理整頓を行い、今はようやくプラマイゼロまで来れたように思う。こうして毎週ほぼ定期的に文章を書けていることが何よりの証拠。

そしてここにきて思うのは、心身の健康がまずは土台であり、その上に長い積み重ねをしていくことで人は成長できるのではないか、ということだ。持続的な生活をするためには心身が日々健康であらねばならない。持続的な生活があるからこそ、積み重ねをしくていくができる。だから健康が成長の土台にある。

筋トレをするとわかるが肉体的な目に見える成長も薄い膜を重ねるような途方もない苦労がある。目に見えない精神面、知性はなおさらだと実感している。成長を続けるには身の丈にあった生活を実践し、健康を土台として、積み重ねていくしかないのだ。

都会のスタバと地方のスタバの違い

先日、とある記事が目に留まった。

president.jp

↑この記事だ。要約すると、居心地の良さを体験できる場所と拡大戦略の矛盾した目的のバランスが悪く、コストパフォーマンスが悪く、居心地も良くない場所として認識されつつあるという話である。

ブコメにも書いたのだが、スタバは都会と地方で業態が違うのでは?と思うくらいの違いがある。見てもらえれば話は早いのだが、

↑こちらが地方(石巻)のスタバだ。この日は平日で時間は9時あたり。さすがに空きすぎではあるものの、平日ならほぼゆったりとした空間が維持されている。パソコンを使う人も多少はいるが、お話をしたりぼんやり本を読む人も多い。高校生がやってくる時間帯もあるが基本的に客層は落ち着いており過ごしやすい。土日は多少混みあうものの、「座れない」という状況は本当に稀である。スタッフも余裕があり、アットホーム感がある。おそらく本来のスタバが目指したいサービスはこういうものなのだろうという事が伝わる店舗だ(成り立っているかどうかは怪しい)。

一方で都会に出てもスタバを利用することもあるが、批判されているように混雑感は凄いし、そして何より狭さがある。写真の田舎の独立店で慣れている身からすれば、都会店は下位クラスな店に感じる。感じている価値がまったく異なる。

地方のメリットといえばメリットなのだとは思うが、しかし地方では広いのびのびした空間は「当たり前」ではあるためそこに価値を感じる人は少ないのではないかと思う。またサードプレイス的な使い方をする人も非常に限定的で、田舎と都会の働き方の違いも大きく感じる場所でもある。

もう少し検討すれば違いによる商売のやり方や管理コストの違いあたりまで話が膨らみそうな話題になりそうだが、今日のところはここまでにしておきます。というわけで、都会のスタバに疲れた人はぜひ田舎の空いたスタバへ行ってみるといいですよというお話でした。

ゆるく生きるという幻想

「淡々とリズムを刻む生活をしている」と相手に伝えると、人によっては「そんなに管理されて大変ですね」といった反応をされる。

ゆるく生きる。飄々と生きる。そうした生き方に自分も憧れがあった。旅をしながら、ノマドをしながら、なんとなく仕事をして、なんとなく生きていく。なんとなく美味いものを食べて、酒を飲みながらなんとなく話しながら、なんとなく寝る、みたいななんとなくな生活だ。

ようするにストレスフリーな生き方がゆるさだとするならば、そもそもの支配からの脱却が必要になる。支配とは単に主従関係といった関係性の話ではなく、自己主体性があるかどうかという自己の話である。主体性を持った生き方ができていなければ自分の人生を歩んでいるとは言えず、それは支配された人生を歩んでいることにつながる。主体性を持たずに外側だけを真似てゆるく生きたとしても、それは長続きはしない。なぜならば結局は支配の中の自由だからだ。

根本的なストレスがない生き方を目指すならば主体性を持つことが重要であり、その点をまずは自覚できるかどうかが大事だ。自分はいったい何に価値を感じ、何にこだわるのかを明確にしながら、自分で目標を立て、それを実現するためにはどうすればよいか考えながら生きていく。主体性をもった生き方とはそういうものであり、誰かに与えられたものを延々と得るだけでは本質的には支配されたままである。

私の場合、その実現方法はリズムを刻む時間割が適切であり、それが主体的な生き方だといえる。人によってはプールサイドでぼんやりしながらパソコンを開くような方法が主体的な生き方になる人もいるのかもしれない。それがどんな方法になるかは人によるのだろうが、いわゆるゆるく生きる方法が正しくゆるさがあるかどうかは主体性によるのだ。

などと過去の自分に話せばまー聞かなかったとは思う。まさか、ぼんやりしながら生きるよりも、パキっとした時間割で生きる方が実は自分にとって楽で思考量も増えるということはやってみなければわからなかった。これはこういうものだという概念を捨てて、自分で考えて選択し違ったら変えるという柔軟性を常に持ち続けることが、必要なのだ。

目標設定率を設定したことで目標が出来た話

最近、リズムケアというアプリを知った。
細かく、日々の習慣を記録していくものなのだがカスタマイズがしやすいこともあり、試しに使ってみている。一部はiphoneのヘルスケアと同期ができるのだが、睡眠時間が同期ができない点以外は使い勝手はまずまずよい。

体重やら体脂肪といった定番ものの他に、自分で「目標達成率」と「一日の評価」という項目を足した。目標達成率は客観的なその日の労働目標に対する達成率であり、一日の評価は主観で五段階評価のもとなんとなくの感情を優先にチェックをつけている。

それで、つけてわかった課題は目標達成率があいまいになっている点だ。

現在のタスクとスケジュール管理はNotionとGoogleカレンダーの合わせ技で行っている。参考にしたのは

https://note.com/shiratoriyurie/n/nb798567dc116

↑こちらの記事。毎週月曜に1週間の予定を組み込んで管理をするのだが、まあまあ上手く回ってはいる。また、スケジュールを作ることが楽しいということを知れた。

あいまいになっている理由は2つあり、1つは週単位にフォーカスしているため1日の使い方を雑にしている点、もう1つは新規の創造的を伴う生産の場合、生産時間が非常に読めないという点である。

前者に関しては、タスクごとの時間を精査し、1日で終わらせる必要があるものを洗い出し、その上で「明日でいいか」をなくす必要がある。後者は慣れた仕事と違い、新規のものは時間がかかる、というか読めない。時間を決めてその中でやりきることが重要だとは思うが、なかなか難しい。創造を伴うものは難しく時間がかかるから、その中でもより細かい粒にして対処する必要がある。

新規事業を起こす場合はその大変な労力を費やす必要がある。何かをはじめるということはそれだけパワーが必要になることなのである。だからこそ事前に計画を立て、場当たり的にならないようにしなければならない。

今のところ、バージョンアップはしていないから目標達成率もかなり主観が残っている。客観性を持たせように変えていく必要がある。

「311を忘れない」の違和感

今年も3月11日が過ぎた。

石巻に在住していることもあり、この時期は震災関連の情報量が一気に多くなる。ありとあらゆるメディア、FacebookTwitterなどを通した個人の言及など、多方面に渡る。さまざまな文言が並ぶ中で、「忘れない」という単語が気になった。

311を忘れない。
311があったことを忘れないで。

連続でこうした言葉を見るたびに、これは誰に何の目的でどんな文脈で伝えているのか?疑問に思うようになった。

◆仮説1.防災観点
まず考えられるのは防災という観点だ。震災を教訓として後世に伝えていくという文脈であれば「311を忘れない」は違和感は少ないかもしれない。一方で311を思い出すことで生まれてくるのは「大地震津波」の情報だけであり、その影響に対応する行動様式は揃わない。個人ベースの防災の目指すところは「いつどこで大地震(大災害)が起きようとも冷静に準備された行程に従い行動できるか」になるはずであり、その場合は「311を忘れない」では不足しており、「311を教訓に準備をしよう」や「次の311に備えよう」といった言葉になるのではないか。特に震源地から離れれば離れるほど、本質的に重要な情報が抜け落ちてしまうのではないか。

◆仮説2.故人を偲ぶ意味合い
亡くなった人のことを忘れないように…ということもあり得る。しかし、単純に雑なのではないか。311ではなく故人を忘れないことが重要であり、となると「311(で亡くなった故人)を忘れない」…ということになるのか。

◆仮説3.あの当時の「気持ち」を思い出す意味合い
打ちのめされた状態から「絶対に復活する」という、当時の気持ちを忘れないようにという意味合い説。これは意味合いとしては理解できる。印象としては商売をしている人がこの文脈で使っているようには見える。近い言葉で「あの日を忘れない」がある。

◆仮説4.その他
例えば福島では未だに避難区域になっている場所があるし、他の沿岸部でもまだまだ整備すら進んでいない場所も多いため、まだまだなんだよという意味合いで使っている場合もある…のだろうか。

などと、いろいろと仮説を立てて考えてみた。理解できる文脈もある。だが、私見としてはそこまで深く考えて言葉を放っているというよりも、定型文の扱いになっている節があるのではないかと思う。忘れないという単語は寄り添う意味合いでは非常に便利である。だからあらゆる場面で登場し、そして各種SNSで増幅してるのではないかと推察される。

毎日が誰かの辛い日であり、毎年大きな災害が日本で、そして海外で発生している。そのすべてに反応し、覚えておくことは難しい。情報が氾濫する時代にはなおさらである。311だけを覚えていて欲しいと伝えるだけでは時間が経過すればより一層情報は薄まることは間違いない。一方で311は様々な教訓があり、学び覚えることでパラダイムシフトを起こすこともありえる出来事だともいえる。

10年という時が経過したからこそ、いま一度振り返り、何を忘れないのか、さらにこれからの知らない層に対して何を覚えていて欲しいのか絞って伝える必要があるのではないか。

そんなことを今年の3月11日に考えた。