轟音からその先へ

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田舎の閉鎖性と車社会の関係

石巻で車を走らせているとたまにみる光景として「タバコのポイ捨て」がある。タバコをぽいっと火をつけたまま捨ててしまうのだ。初めて見た時はぎょっとしたんだけど、しばらくすると「またか」くらいの感覚になった。この行為だが考えてみると、かなり不思議な構図になっている。このご時世散々たばこのマナーに関して啓発があり、喫煙者の肩身が狭くなっているはずなのに、自分の首を苦しめる行為をわざわざするのはちょっとどうかしている。本人に聞いたことはないが推測では「特に考えていない」からそうした行為ができるのではないかと思う。おそらく本人は「普通」の事なのではないか。

だとすると、この人の普通ってなんだろうか。「普通=価値観」を構成する要素はインプットの量や質によって定まっていくと思うんだけど、それは育ちから普段の生活までつながった上で決まっていくはず。
そこで車社会が鍵になってくる。車社会だと、移動はすべて「個」につながる。自宅から車で移動し会社に行き車で自宅に帰る。同じところをぐるぐるぐるぐる周る。当然コミュニティも固定化され、それが「普通」になる。だからその世界で車からのポイ捨てが「普通」だとすれば、悪いことだとすら思うわないはずで、だとすれば堂々とタバコのポイ捨てをしてもおかしくはないはず(いやおかしいんだけどさ)。

一方これが公共交通機関を使うとどうだろうか。例えばそれなりの乗車率の電車はどうだ。椅子に座っていると、隣に座る人は毎回違う。子供もいればおじいちゃんもいる。同い年くらいの人もいる。金持ちもいればそうじゃなさそうな人もいるしこの人やばそうだなって人もいる。広告も時期によって変わるし、時期によって人の装いも変われば、流行りによって人が持つものも変わる。スマホを見ていたとしても、それらは強制的に目に入るし、強制的に「パーソナルスペースに他者が入り込む」。さらにターミナル駅で降りればさらに人と爻わったりもする。

ただの移動といえば移動だが、日常的に使用する移動が「車」か「公共交通機関」では多様な違いを受容する下地としてはけっこう違いがあるのではないかと思う。たまに電車に乗ると人の近さにびびるもんな。

田舎と都会には当然違いはあるけど、そうした車移動の影響や単に人の少なさ、移動ルートのパターン化などでどうしたって閉鎖性は高まる。閉鎖性が高まれば、(そこに長く住む事を前提とした場合)どうしたって保守的になるんだな。みたいな事を考えた。